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「ミシュランガイド」で”伝統的フランス料理”と絶賛されるパリ17区のフレンチレストラン「Le 703」。宇都宮から ... - 岩手日報

パリ17区のフレンチレストラン「Le 703(ル セットゥ ソン トロワ)」。わずか開店2年目にして、権威あるレストランガイド「le Guide Michelin(ミシュランガイド)」「Gault & Millau (ゴ・エ・ミヨ)」に掲載され、「伝統的なフランス料理店」として絶賛されました。

 オーナーシェフ・大垣直巳は、11年に渡って、フランスの星付きレストランで修行を重ねてきました。

 2014年、故郷である栃木県・宇都宮市にオープンした「Naomi OGAKI(ナオミ・オオガキ)」は、たちまち人気店になりました。ミートパテをパイで包み焼きにし、ジュレと共に冷やし固めた看板メニュー「パテ アン クルート」や、ビールを染み込ませたフレンチトーストにビールアイスを添えた「ブリオッシュ ア・ラ・ビエール」など、アルザス地方とプロヴァンス地方の伝統的な郷土料理とワインのマリアージュを楽しめる店として、地元の人々に愛されています。

 そんな大垣が長年の夢だった「Le 703」開業に着手したのは、2020年2月。それは世界中が大打撃を被った「コロナ禍」が始まった年でもありました。

 大垣は、いかにして逆境を乗り越え、夢を実現してきたのでしょうか。さながら冒険物語のような、挑戦の日々を追いました。

料理人を目指したきっかけと星付きレストランでの修行

 僕が料理に興味を持ったのは、家族の影響によるところが大きいですね。両親が仕事で忙しかったため、祖父母が中心となって僕を育ててくれたのですが、海軍で調理の仕事をしていた祖父は「フランスのマルセイユはこんな場所でな…」と、外国のこと、その土地の料理のことなど、いろいろな話をしてくれました。

 また、祖父が作る味噌汁がとても美味しかったり、カットしてくれたフルーツの見た目が綺麗だったりして、いつしか僕も料理に興味を持つようになりました。学校の家庭科で習った料理を家族に振舞ったりもしましたね。

 「将来は料理人になりたい」と伝えると、父は猛反対しました。だけど僕も、一度言い出したら聞かない性格ですので、何度も父の説得を試みました。その結果、「学業をおろそかにしないこと」を条件に、父は調理科への進学を承諾してくれました。ですので、在学中はトップクラスの成績を維持するため、勉強も頑張りました。

何のツテもない異国の地。それでも、諦めるわけにはいかない

 高校を卒業した1998年の夏、僕は修行のために渡仏しました。住む場所以外は何も決まっていなかったので、まずは職探しです。このとき、僕にとって重要だったのは「星付きのレストランであること」。アルバイトでお金を貯め、評判のレストランを訪れては、味を確かめました。やがて一軒の素晴らしいレストランを見つけ、「ここしかない」と思った僕は、後日再び店を訪れ、「働かせて下さい」とお願いしました。

 当然、ろくにフランス語も話せない日本人がいきなりやって来たところで、雇ってくれるはずもありません。ただ僕も、簡単に諦めるわけにはいきませんので、それから何度も何度も店に通いました。

 オーナーシェフが「またお前か。とりあえず中に入れ」と、うんざりした表情で応対してくれたのは、7回目に門を叩いたときです。僕は拙いフランス語で、ありったけの思いをシェフに伝えました。するとシェフが「うーん、どうしたものか」と一瞬考え込んだので、すかさず僕は彼の手を握り「ありがとうございます! これで母も喜びます!」(笑)。シェフは苦笑いしながら「わかった、わかった。明日から来い」と言って下さいました。

「お前の望みは、わかってたよ。お前は、息子同然だ」オーナシェフの紹介で開けた、三ツ星レストランへの道

 厳しいオーナーシェフや先輩シェフに「あいつは使える」と認めてもらうため、店の雑用や力仕事はもちろん、皆が嫌がる外のドブ掃除まで、どんなこともがむしゃらにやりました。

 2年ほど経つと、料理も一通り任せていただけるまでになりました。面白いもので、人の欲って尽きないんですね。5年が経過する頃には「もっと上を目指したい」と考えるようになっていました。

 僕は再びシェフと相対して、自分の思いを正直に伝えました。するとシェフは「お前の望みは、わかってたよ。いつ言い出すか、待ってたんだ」と言い、僕の目の前で、知り合いの三ツ星レストランのシェフに電話し「うちに凄い日本人がいるぞ。絶対にお前の力になるから」と、かけあって下さったのです。

 フランスの三ツ星レストランと言えば、世界中の料理人の憧れの的です。僕が個人で履歴書を送ったところで、絶対に入ることはできません。それがシェフの一言で可能になったのですから、つくづく、フランス飲食業界における人脈や信頼関係の大切さを感じました。

 何より、僕のことを「お前は、俺の息子同然だ」と、背中を押して下さったシェフへの感謝の思いは、今も忘れていません。

三ツ星レストランでの厳しい修行を通して学んだ「何より大切なのは、誠実、そして正直であること」

 念願の三ツ星レストランでの修行は、想像をはるかに上回る厳しさでした。調理場で働く30名ほどの同僚たちは、百戦錬磨の猛者ばかり。中には差別意識を隠さない人もいて、日本人である僕への態度は酷いものでした。時には、大事な情報を僕にだけ流さないなど、わざと窮地に陥れるような画策をしてくることまでありました。その頃には僕もフランス語でのコミュニケーションに困ることはなかったので、いつも何とか切り抜けたものの、とにかく悔しかったですね。相手に殴りかかりそうになる気持ちを抑えるため、プレハブ冷蔵庫の中で悔しさや怒りをグッとこらえながら、頭を冷やしたこともあります。

しかし、そんな同僚にかまけている時間はありません。三ツ星の調理場は、まるで軍隊のように厳しい現場です。自分を認めてもらうために、皆が必死でした。

 そんな環境にあって、僕が特に大事にしていたのは「賄い」です。賄いは自分の技術をシェフに知ってもらう数少ない手段の一つですので、毎回、自分にできる最高のものを作るべく挑みました。

 そんなある日、シェフが厳しい表情で「今日の賄いは誰が作った!」と、厨房に響き渡る声で言いました。「あぁ、やっちまった」、当番だった僕は絶望しかけました。 

 しかしシェフは「ここ数年で一番の美味しさだ!」と大絶賛して下さったのです。

 その日から、景色ががらりと変わりました。「ナオミ、この肉を焼けるか」「あの魚を扱えるか」と、シェフは僕をいつも側に置き、さまざまな仕事を任せて下さるようになったのです。

 そして4年が経つ頃には、僕を同店の副料理長に、その後シェフが新しい店をオープンした際には、僕を料理長に抜擢して下さいました。

なぜ、シェフは同僚の猛者を差し置いて、僕を信頼し、重用してくれたのでしょう。その後、何度も考えましたが、自分で店を経営するようになった今は、その理由が分かる気がします。

 僕が大切にしてきたのは、誠実、そして正直であることです。なので失敗しても隠さずに報告し、「改善したほうがいい」と思うことは、臆することなく伝えてきました。

 どんな仕事でもそうだと思いますが、従業員は、上司に気に入られたい気持ちから、失敗を隠したり、改善すべき所があっても言わずにいることがあります。

 今、経営者として実感するのは、失敗や改善点を教えてくれる従業員は、何より貴重な存在だということです。シェフもまた、そんな風に僕を受け止めてくれたのではないかな、と思います。

支えてくれたお客様とともに、自分の店をオープンした宇都宮を盛り上げたい

 フランスでの生活が11年目を迎える頃には、「東京で自分の店を出したい」との思いが強くなっていました。長年の夢を、叶えるべき時期に来ていると思ったのです。そこで僕は、まずは恩師である音羽和紀シェフに相談しました。ご存じのように、音羽シェフといえば日本のフランス料理の第一人者であり、宇都宮を中心に地域振興にも尽力されている方です。僕は高校時代から、音羽シェフのお店で研修を受けたり、相談をさせて頂いたりして、とてもお世話になっていました。

 そんな音羽シェフが「自由にやってもらって構わないから」と、ご自身の店を僕に任せて下さるというので、2009年より、僕は拠点を日本に移すことになりました。さらに大きな転機となったのは、2011年の東日本大震災です。この大災害をきっかけに、皆で支えあうことや、地域の絆の大切さなど、さまざまなことを考えさせられました。

 また、宇都宮でのたくさんのお客様との出会いや、お客様の止むことなき応援も、僕の大切な心の支えになっていました。やがて僕は「なぜ、東京にこだわっていたんだろう」「宇都宮という地方都市で、お客様と一緒に地域を盛り上げていきたい」と考えるようになり、結果として、宇都宮に「Naomi OGAKI」をオープンするに至ったのです。

コロナ禍に挑んだ、フランス・パリでのレストラン開業と苦難

 「Naomi OGAKI」はおかげ様で、2024年に開店10周年を迎えます。そして今、僕はもう一つの長年の夢を叶えるため、挑戦しているところです。それは「フランスに、伝統的なフランス料理の店を作ること」。フランスでの修行時代、シェフやお客様が自分の料理を認めて下さったことは、計り知れないほどの喜びと達成感をもたらしてくれました。僕はいつしか「あの喜びを、もう一度味わいたい」、「フランス人が作るよりもフランスらしい伝統料理を作って、多くの方に喜んで頂きたい」という夢を抱くようになったのです。その夢は、厳しい修行の際も、僕の心を支えてくれました。

もちろん、簡単なことではないとわかっていました。それでも、「やりたいと思ったことは一つ残らず挑戦して、人生を全うしたい」との思いが、僕の背中を押してくれたのです。

僕たちはパリ17区での「Le 703」開業に集中するため、横浜の店舗をクローズすることに。それから何度も日本とフランスを行き来して、物件を探しました。その結果、「ここだ」という物件に出会えたのは、2020年2月のことでした。そうです。それ以降、世界がコロナ禍に突入し、大きな試練に向き合うことになった、あの年です。

僕も例外ではなく、大打撃を受けました。物件を押さえたものの、改装工事は一切手つかずのまま進まず、家賃だけを支払う日々が続きました。「いったん、手を引いたら?」と言われたこともあります。しかし、そうもいきません。フランスには独特のシステムがあり、店を始めるにはまず営業権を得なければなりません。その営業権獲得のために、すでに4,000万円ものお金がかかっていました。契約解除してしまうとそのお金は戻ってこないので、毎月40万円の家賃を払い続けるしかありません。結局、2年4ヵ月払い続けることになり、1,200万円のお金が飛びました。リスクがあるとはいえ、あれはなかなかしんどい経験でしたね。

  

人生で学んだ「信念をもって挑戦することの素晴らしさ」を、次世代に伝えたい

 「Le 703」が開店にこぎつけ、街に人が戻ってきても、客足は伸び悩みました。ただ、自分の進んでいる道が間違っていないことだけは、確信していました。現地のスタッフはちゃんとした料理を出していましたし、少しずつですが、リピート率も上昇していたからです。とはいえ、経営が安定しているとは到底言えない状況は続き、さすがの僕も焦りを感じ始めた頃…事態を大きく変える出来事がありました。

フランスの二大巨頭と言われる、非常に権威のある「ミシュランガイド」「ゴ・エ・ミヨ」に「Le 703」が掲載されたのです。「ミシュランガイド」に記載された評価は、「伝統的なフランス料理」。それは僕の夢をそのまま表現した言葉でした。これは本当に、嬉しかったですね。また、ガイドブックへの掲載がきっかけとなって、お客様が安定して来て下さるようになりました。

とはいえ、まだまだ安心はできません。これからも、常に未来を見据えて努力をしていかなければ、店を続けることは難しいでしょう。

これから先も茨の道が続くことは、僕自身がよくわかっています。でも、僕はこれまでの人生で、努力と信念をもって挑戦し続ければ、必ず次の扉が開くことを学びました。ですのでこの先も、僕は挑戦し続けるでしょう。

そして僕は、人生で学んだことを、料理人を目指す若い人たち、夢を追うすべての人たちに伝えていきたいと思っています。目標や夢を持つこと、努力のしかた、挑戦することの大切さを、次世代に伝えていくこと。それが、僕の使命のひとつだと思っているんです。

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