中華・フレンチ・イタリアンにタイ・インド料理…いまや日本国内で世界各国の料理が楽しめるのは当たり前だ。とはいえ、実はそれぞれの料理が日本で「一般的」になるためにはさまざまな料理人たちの苦労があった――SNSでも人気の博覧強記の料理人・イナダシュンスケさんの新刊『異国の味』(稲田俊輔/集英社)はそんな知られざる「世界の味」が辿ってきた来し方を振り返るエッセイ。著者はどんな思いをこめたのか? 稲田さんにお話をうかがった。
●異国の料理を通じてみえてくる「日本人論」
――タイトルから「各国料理の紹介の本」なのかと思いきや、それぞれの料理が日本に根付くまでの道のりを追うという着眼点が面白いです。企画はどんな風にはじまったんですか?
稲田俊輔さん(以下、稲田):外国料理の味そのものも大好きなんですが、どの料理も日本で広まっていく過程で奇妙にねじまがっていくんですね。僕はそれが単純に面白いと思っていて、自分なりに調べたり考察したりしてSNSでも発信してきました。この本で書いたエピソードはそんな中で書いてきたこともいろいろあって、「日本人論」じゃないですが、エピソードをつなげていくと日本人の特性みたいなものが出てくると思ったんです。
僕は外国の料理には味そのものだけじゃなくて、それをとりまく広い意味での「ロマン」みたいなものがあると思うんですよ。ロマンというのはそれこそ、歴史であったり、土地の風土、それを育んできた現地の人々の文化であったり、あるいはそれを日本で普及させた人たちの物語だったり、そういう二重三重のロマンに包まれた全体が「おいしさ」であると。なので、そこを意識せずに食べるのはちょっともったいないなと思っているんです。
――新しい料理が好きでどんどん取り入れるけど、どの料理も絶妙に日本風になっていく。そのアンビバレンツな感じがすごく面白いです。
稲田:そうなんです。実際、この本を書いている途中で、「テーマになる国」はどんどん変わっていくんですけど、結局、繰り返し同じことを書いているような感覚に陥ったんですね。成り立ちも好かれ方や人気度も全部違うので、「違う物語」を書いていたはずなのに、ストーリーを集約するとほぼ全部同じじゃないか、みたいな。細かい部分がいろいろ変わってくるだけで、ジャンルは違えど大筋は同じことをやっているんだな、と。
――謎ですね。どうしてそうなるんでしょう?
稲田:結局、最後まで謎でしたね。ただ、言えるのは、基本的に食に対して保守的で、子どもの頃から慣れたものを食べ続けるっていうのは人類の性(さが)なんですよね。むしろそこがベースにあって、それは日本人だろうとインド人だろうと欧米人だろうと共通なんです。
ただ、なぜか日本人だけはいろいろ見てみたい、食べてみたいという好奇心が、ほかの国の人たちと比べると強い。なので結局は、日本人も慣れた味しか受け付けないのは当たり前だし、そこに疑問を感じる必要はないんだろうな、と。
――平安時代の国風文化じゃないですが、なんでも「日本流」にしてしまうっていうのは、ある意味で、日本人のキュートなとこかな、という気もしていて。
稲田:キュートはいいですね(笑)。ある種、器用だしかわいいですよね。僕は現地の味原理主義者なんで「そんなアレンジしないでくれ」って思いつつも、アレンジされていく姿を見て「かわいらしい」と思ってしまう部分もある。
実際、かわいらしさ第一号みたいなものって、いわゆる「洋食」のカツレツ、オムライス的な世界だと思うんですけど、あれ、最高にキュートじゃないですか。あそこまでいくと原理主義者としても何も言えません(笑)。
――食べやすさを加える、つまり「やさしさ」を加えるわけで、それもキュートですね。
稲田:「親切心」みたいなものですかね。もちろんこの商売で生きていかなきゃいけない、その上では好かれなきゃいけないっていう葛藤とかも含め、かわいらしい現象が起きているなという。
実は僕はネパール人の方々が作り上げた「日本的なインド料理」を昔は憎んでいたといっても過言ではなかったんですが、今となってはやっぱりそれもキュートだと思っています。だって言葉も文化もわからないところから来て、別に料理人でもなんでもない人もいて、昨日まで畑たがやしていたような人が、突然包丁にぎって日本でカレーを作りはじめるっていう。そんな中でああいうスタイル、とてもキャッチーで親切でホスピタリティにあふれたスタイルが出来上がって、それを受け継いでいるというのも、ものすごくチャーミングだと思えるようになりましたね。
――とはいえ料理人の立場からすれば、原理主義的に現地の味を伝えたいのにそれは変えていかなきゃいけないしんどさもやっぱりありますよね。
稲田:僕も南インド料理の店をやっているので、実際、そういった葛藤はありましたね。それでその葛藤を「制約のあるゲームとして楽しむ」みたいな感じで捉えることにしたんです。「こういうのは受けないし、こういう人が一定数いる、さあ、どうする?」みたいな厳しいルールがあって、その中でベストを尽くすほうがやりがいがあるだろうと。
ただそれをやって辿り着いた結論は、「マニア向けか一般向けかで悩むくらいなら、両方やりゃいいじゃん」ということで。その場合はお客さんが自分に合ったものに辿り着けるルートをちゃんと交通整理してあげる必要がありますが。やっぱり真面目な方ほど、原理主義的なことが理想であり、理想に忠実であらねばならないという思いが強いので葛藤するんでしょうけど、正直、もうちょっと肩の力を抜いて両方やればいいのにって思いますね。
●外国料理の魔改造=ザ・和食化
――「味の日本化」の翻訳の仕方は、関東と関西で違いがあったりするんですか?
稲田:京都にはいわゆる京都中華っていうものがあったりするし、日本洋食的なものも関東と関西で微妙に違ったりはします。ただそれは100年単位の昔みたいな話で、ここ30、40年くらいでいうとあまりない気がします。どこに行っても翻訳の仕方は近いし、日本人の味覚はどんどん統一されていっている気がします。
おまけの章で「日本の味覚の関西化」みたいなことを書いていますけど、昔のほうがローカル食がたくさんあって、今もそれは残ってはいるものの、「一番好きなのどんな味? 一番よく食べるのどんな味?」ってなると、めちゃくちゃ均質化しているイメージ。なので外国料理が翻訳されるときも、全国どこでも共通して思い描く「食べやすさ、豪華さ、うれしさ」みたいなところに焦点が当たっていて、違いは店ごとの個性みたいな感じで出てくる。
――たとえば世界での和食人気の理由に「UMAMI」があるとも言われていますが、やはり「UMAMI」が我々共通の味感覚なんでしょうか。
稲田:間違いないと思います。外国の料理を日本人好みに魔改造するときに必ず行われることは「旨味を増す」ことで。つまりカツオと昆布の合わせ出汁の要素をなんらか加えていくわけです。あとは甘みも増やして、油は減らされる傾向にあります。旨味を使う、大豆系の発酵調味料を使う、料理に甘い味付けをする、油が少ない――これってザ・和食の特徴なんですよ。
世界の料理で見た場合に、和食の特異性はここに集約されるわけです。なんだかんだいって、外国料理の魔改造のアレンジというのは、すべて和食化を目指しているっていうことで、割りと足並みが揃っているんです。食材単位で見ると味噌なんてそうそう使いませんけど、大事なのは「概念」。日本の食材とかを用いなかったとしても、その概念だけ和食化するっていうことでいうと、逆にあらゆる世界の料理をこの方法論で和食化することができる、日本人好みに近づけていくことができるわけです。
――魔改造レシピ本ができそうですね。
稲田:でも原則が1つだから10ページで終わっちゃう(笑)。あとはどんだけ水増しするかですね。実は、この和食の構成概念に近いものってタイ料理だったりするんです。イタリアンも比較的近い。タイ料理があんなにぶっとんだ食べ物なのに、すんなり受け入れられたのは、そうやって因数分解すると概念としての構成要素がたぶん世界一くらい和食に向いているからなんじゃないかっていう。
●マニアじゃない人の嗜好を必死で考える
――ちょっと話が変わりますが、そもそもどうして食の道に進まれたんですか?
稲田:もともと「作ること」が好きだったので、本当は別に料理じゃなくてもよかったんです。なんでもいいから作る側の人間になりたかったけど、自分にできて、なおかつ、それを職業にできることってなると、料理の道が一番手堅いというか確実で。たとえば「音楽で食うぞ!」みたいに気合入れても高確率で詰みそうじゃないですか。料理だったら地道にやっていけば、それなりになりますから。
――大学では経済を学ばれる一方で、食べることにも熱心だったとか。そういう経験も今につながっていそうですね。
稲田:アルバイトもほぼ飲食で、稼いだお金でいろいろ食べていました。まあ、夜の街でお金を横に流して、小さな経済を回していただけですが、それがあったから体系的にいろんなことを考えることにもなりました。
ただ学生時代もそうですけど、子どもの頃から親が多様な食文化を経験させてくれていたんですよね。当時は当たり前にそれを受け止めていましたけど、ある程度社会を知るようになると、それがかなり特殊だしラッキーだったんだと気が付きました。料理の道を選んだときも、専門学校に行っていないことに引け目は感じても、かわりに自分は巷の料理人にはない財産を持っているから「これでなんとか対等にやれるだろう」って思えましたし。
――南インド料理とか、奥深いマニアの方たちがいそう。そんな方たちとうまくやるコツはありますか?
稲田:むしろ簡単ですよ。自分がマニアだから、自分がしてほしいことをすればいいっていう。逆にマニアじゃない人がどう考えるかみたいなことがわからないから、必死で想像したり、リサーチしたりして、そこをなんとか補っていく。なるべく客観的に考えて、「世の中でこういうものがコケて、こういうものが受け入れられている、ということはこういうものが好きに違いない」みたいに推論したり、好まれるものには一定の法則みたいなものが必ずあるので、その法則からなるべくズレないようにしたり。
あとは無意識にマニアックで受け入れられにくい方向にいきそうになるんで、いつも周りのスタッフに「やりすぎたら止めて!」って言っています。ある程度はそういう要素があったほうが錆びつかないんですが、やりすぎはいけないですから。ただ、残念なことに最近、誰も止めなくなってしまって(笑)。周りの人間もだいぶ慣れてきて、「いけますよ、だいじょぶっスよ」みたいになっちゃったので、最近は自分で止めるようにしています。
――そうやって一般の人を想像するからこそ、一般の人にもわかりやすくて面白い本が書けるんですね。
稲田:ありがとうございます。本を書くというのは、一般の人たちに受けるために料理を変えたり、味を変えたりしていった足跡の追体験であり、僕自身がそれを学ぼうとした面もあったんだと思います。たとえばイタリアンの人たちがどうやって今みたいになったのか、どうやったら日本人に合わせられるのか、そんないろいろなことを僕自身も学んだという。
――いまやファミレスにもさまざまな国の料理がありますが、こういう歴史を知るとさらにおいしく楽しめそうです。
稲田:ファミレスに並ぶ状況に至るそれぞれの源流を知った上で、そこに戻ってくると、この混沌とした世界がより鮮明に楽しめるようになると思いますよ。
――ファミレスの平たいメニューに凹凸ができていく感じがします。
稲田:そうそう。裏のレイヤーがある、みたいなね。そんな味とロマンを、ぜひ味わってほしいと思います。
取材・文=荒井理恵、撮影=金澤正平
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